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浅利慶太

浅利慶太の病名や病状・死因は?劇団四季の演出家で経歴は?認知症だった?

投稿日:2018年7月18日 更新日:




劇団四季の元代表であり演出家、『ライオンキング』『キャッツ』などのミュージカル公演を演出していた浅利慶太氏が85歳で亡くなりました。

7月13日午後5時33分に悪性リンパ腫のため、都内の病院にて85歳にてお亡くなりになったようです。

喪主は妻で女優の野村玲子(本名 浅利玲子 りょうこ)さんで、葬儀は近親者で既に営まれました。

2018年9月に、関係者による『お別れの会』が催される予定ですが、詳細は 劇団四季のホームページ  にて発表されるようです。

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浅利慶太は認知症を患っていた?

死因は悪性リンパ腫ですが、週刊新潮などの報道によりますと、晩年は軽度のアルツハイマー認知症だったのではないかと言われています。

知人が現れると、同じようなことを繰り返して聞くなどするため、知人が不安になっていたようですね。

人間ドックなどでも指摘されていたようであり、劇団四季の旗揚げメンバーながら、2014年に劇団四季の社長を退任して一線を退かれます。

しかし、翌2015年に新事務所を設立しました。

せりふ劇を中心に上演しており、2018年9月にも『アンドロマチック』を演出する予定でした。悪性リンパ腫の経緯や病気の経過などは明らかにされていません。

劇団四季のホームページ内の訃報

https://www.shiki.jp/navi/news/renewinfo/030897.html

浅利慶太の演出家としての経歴は?

浅利慶太氏は東京都出身で、大叔父が歌舞伎俳優の二代目市川左団次、父が築地小劇場創立者の1人浅利鶴雄でした。

慶應義塾大学仏文科在学中に、劇作家の加藤道夫氏と出会うことで、演劇を志すようになります。

そして、藤野節子、水島弘、日下武史ら慶應義塾大学・東京大学の学生を中心とした『劇団四季』を結成しました。

以降、ストレートプレイからミュージカルまで、ほとんどすべての作品の制作と演出を手掛けています。

経営手腕が優秀であり、劇団俳優と言えばアルバイトの副業が必須なところを『芝居だけで食べられる劇団』に押し上げました。

創設当初は、ジャン・アヌイやジャン・ジロドゥなど、フランス近代劇を中心に上映していました。

その後、ミュージカルに挑戦します。

『キャッツ』の日本上演権を獲得し、1958年、専用劇場でのロングラン公演を成功させ、これはミュージカルブームを巻き起こすことになります。

『キャッツ』では、コンピューターによるチケット販売システムを初めて導入しました。

日本語の母音を明瞭に発声する『母音法』を確立し、市村正親さん、鹿賀丈史さん、石丸幹二さんをはじめとする名優を育てました。

その後は『オペラ座の怪人』『ライオンキング』などのロングラン公演を実現させ、日本における興行形態にルネサンスをもたらします。

オリジナルのミュージカルも手がけ昭和三部作と呼ばれる『ミュージカル李香蘭』『異国の丘』『南十字星』をヒットさせました。

1998年(平成10年)には、長野オリンピックの開会式の総合プロデューサーも担当し、成功に導きました。

↑ 右はフィギュアスケーターの伊藤みどりさん

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浅利慶太氏の訃報に対するコメントは?

 

< NHKの木田幸紀放送総局長 >

ショック以外の何ものでもないです。

エンターテイメントというより、もっと幅広い文化、芸術の世界で本当に大きな足跡を残していただきました。

特にミュージカルというなかなか日本ではできなかった分野をああいう形でしっかりと定着させていただいた大先輩です。

後輩の我々としては浅利さんの築き上げた財産をしっかりと受け止め、さらに大きく伸ばしていくようにしなくてはなりません。

また関係ある分野の人たちが、僕らも含めてですが、しっかりと仕事を受け止めていくんだろうなと思います。

 

< 前田美波里さん >

(ミュージカル『コーラスライン』(1979年)、『マンマ・ミーア!』(2004年)などで浅利さん演出の舞台に立った女優)

突然の訃報にとても驚いております。

日本におけるミュージカルの歴史を変えた演出家であり、私自身、舞台に立つための基礎を学ばせて頂いた方でした。

今こうして舞台に立っていられるのも先生のおかけですと伝えたいです。

劇団員の方々だけでなく、外部の人間にもチャンスを与えて下さった素晴らしい方でした。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

< 市村正親さん >

僕はかわいがられた役者でした。

もしかするとお別れさせてくれたのかな。

また、浅利さんが『ニューヨークでやるなら、しっかりやれよ』と言ってくれているような気がしました。

成長速度は人それぞれということで「他人の時計をのぞくな」とよく言われましたね。

浅利さんから言われたことを、今度は僕が言ってます。

後輩たちに繋いでいかないといけないと思います。

お酒も覚えさせてもらった。

24歳から41歳までお世話になった。本当に感謝してます。

考えたら16歳しか違わないのですね。

でも、僕にとっては偉大な芝居のお父さんなのかな…?

 

< 鹿賀丈史さん >

元気だと聞いていたのですが…。

急なことで驚いています。

芸名の「鹿賀丈史」の名付け親は浅利さんなんです。

金沢出身なものですから『かがにしろ』と簡単につけられた。

ただ、鹿に賀正の賀。

なぜ鹿かというと『鹿のように俊敏で澄んだ目をしていろ』という思いで鹿とつけてくださった。

その言葉は忘れられない。

今も、その気持ちを大事にしたい。

劇団四季は、10年ぐらいで辞めたんですけど、その後も気にかけてくれてました。

少し前、銀座で食事をしていましたら、先生に久しぶりにお会いしました。

その年に『マクベス』をやることになっていまして『お前、マクベスやるんだって。できんのか』みたいな会話が少しありました。

すぐ後に、手紙をちょうだいいたしまして『この間は酒を飲んでいて、きついことも言ったけど、ごめん』と書いてあってね。

劇団をやめて、ずいぶん時間も経っていましたけど、心にとめてくださってくれていたのかと思って…。

そのときは感謝しました。

浅利慶太さんはとても厳しかったです。

でも、その奥に優しさがある方。魅力のある方で、だからみんなついていった。

バカヤローとか、コノヤローとかはしょっちゅう言われてました。

怒っているのではなく、喝を入れられた感じですね。

芝居を一から教えてもらったと思います。

1つの作品にかける情熱は、すごいパワーがあった。

浅利先生がいなかったら、僕はいない。

長い間、ご苦労様でした。

先生の生き様を見習って大事に生きていきたい。

< 中曾根康弘 元首相 >

浅利慶太さんのご訃報に対し慎んでご冥福をお祈りします。

私は若く政治家としては無役の時代、積極的に文化人と交流したが、浅利さんは若くして有能な演出家で、その芸術論とともに多くを学ばせてもらいました。

特に総理時代、日の出山荘にレーガン大統領を招き、浅利さんの助言を受け日米首脳会談を成功裏に運ぶことができたことは故人に負うところが大きいです。

又、浅利さんは政界の知己も多く、色々な局面で私を助けて頂きました。

夏には軽井沢の私の別荘に床屋政談と称しては訪ねてきて、政治や文化など多岐にわたる話を夜が更けるまでしたことは良き思い出となっています。

改めて故人との交流に感謝し、その人柄を偲びつつ安らかな永眠をお祈りいたします。

 

影響力の大きかった浅利慶太氏の死を悼む声がとても多い気がします。

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